2009年2月17日火曜日

第7講 矢不来の「ボーズ」


 函館山を右手に、木古内方面に国道228号線を進み、北斗市の上磯地区の市街地を抜けると、海岸まで崖が迫る地形になる。ここが、矢不来(やふらい)という地名であるが、古文書には「やぎない」という呼称が見られる。アイヌ語の地名に由来するが、矢不来神社の沿革に依ればコシャマインの戦いの際、この地にアイヌの毒矢が来なかったことから「ヤギナイ」と呼称し矢不来の字をあてたとの説がある。
しかし、地形から言うとアイヌ語の「ヤンギナイ」=船を揚げる所というものに由来するという説が有力である。
 ここを抜けて海岸方面を注意深く走っていくと、海中から下部を浸食されたコンクリートの標柱のようなものが突き出ているのが見える。地元ではこの標柱を「矢不来のボーズ」と呼んでいるが、何のためにそこにあるものなのかは、ほとんど知る人はいない。釣りのスポットでもあるので、その印に重宝しているくらいのものである。
 この標柱の正体は、旧陸軍が函館山に設置した「津軽要塞」に関連する。
この要塞は、明治31年(1898)から作られ、日露戦争に備えて津輕海峡の防備を固めたとされる。その附属の施設であることだが、要塞の範囲を示す標柱とか、大砲の角度を決めるための潮位を測る定点として活用されたものであるとか伝えられているが、実際の用途は不明である。
 もっとも、この要塞の大砲の射程距離がわずか数キロであったため、海峡を通る敵艦には届く代物ではなかったため、この要塞自体の意味も問われるほどである。現に、第2次大戦時には、アメリカの艦載機がこの要塞の真上を悠々と飛んで、ドックを空襲したという。

 矢不来のボーズは、現在、鳥の休息場として役立っているのみである。 
 

2008年1月14日月曜日

第6講 西部地区の洋館①~相馬株式会社近辺







文久元年来箱、文久3年(1863)弁天町に米穀商を開業した相馬哲平(初代)は、箱館戦争時に米穀で巨利を得、明治5年に米穀から海陸物産・土地投資・金融業へと事業を広げた。明治32年(1899)浜屋平塚時蔵の店を買い、現在の場所に移った。
 なお、この地は明治はじめまで「箱館産物会所」(箱館奉行直属の水産物売捌所。前直轄時代は寛政11年(1799)から、後直轄時代は安政4年(1857)から再々名称変更後明治5年に閉鎖)、「交易会所」(箱館開港後、密貿易を防ぐため会所で取引させた)のあったところである。
 明治40年の大火で焼けたが仮店舗で営業を続け、明治43年から大正5年(1910~1916)にかけて順次新築し現在の姿となった。木造2階建てながら、ルネサンス式石造りの感じを出し、土蔵商家建築の多い大町の中では珍しく、明治の函館らしい雰囲気をもっている。

この建物の電車通り斜め向かい(大町1)に大町郵便局があった。明治43年(1910)大町・弁天町・鶴岡町・西川町・若松町・春日町・旭町・亀田に「郵便受取所」を設けたときの建物(明治44年)で、当時の函館の中心近くにそのまま残されている明治洋風木造建築の一つであった。
 
 函館市の伝統的建造物の一つに指定されていたが平成元年(1989)12月建物維持の問題から、無届けで取りこわされた。このことから函館市景観条例の構造的欠陥が露呈し問題となった。



 なお、付近に新たに建てられた新大町郵便局は、外観を旧大町郵便局のイメージを取り入れた洋風の感じにしている

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2008年1月12日土曜日

第5講 函館と唄

 「はこだて讃歌」を、先日唱う機会があった。

♪誰かに住む街 聞かれたら
はい 函館と答えます
明るく胸はり答えます
親子みんなが住みついて
命かけたい海の街
そんな街です そんな街です 
はこだて

という歌詞であるが、作詞は前川和吉、作曲は廣瀬量平という重厚な楽曲である。
函館っこには、たとえば高校の合唱祭で歌うとか、ごみ収集の際に流れる曲がこれだとか、ある意味生活にしみこんでいる楽曲でもある。

ところで、函館は意外に唄の舞台にもなる街でもあり、函館を題材に様々な歌謡曲などがヒット曲となっている。たとえば、北島三郎の「函館の女」とか、森昌子が「立待岬」などという楽曲があげられる。ただ、こういったいわば「ご当地ソング」とは別に、函館は様々なところで「うた」としてその舞台を提供しているのだ。

 たとえば、これは唄というのかどうかわからないが、あえて、短歌も「唄」とするならば、古くは石川啄木が函館を唱っている。また、与謝野鉄幹、晶子夫妻も立待岬に歌碑を残している。
 卑近な例で言えば、GLAYの楽曲の中にも、基本的に「函館」が舞台である情景の唄があるのは、至極あたりまえのことであり、彼らが函館で過ごしていた時間があるという証左でもある。


 昭和の大ヒット「酒は涙か溜息か」は、函館生まれの唄である。作詞した高橋掬太郎は、函館日々新聞社の記者で、大正年代、北海道では一番の盛り場だった函館の「銀座通り」(今で言えばススキノというべき位置)で連夜遊んだ彼は、「酒は涙か溜息か、男のうさの捨てどころ・・」
という詞をしたため、これが古賀政男によって楽曲化され、昭和6年、藤山一郎の唄によって空前の大ヒットになった。この後、掬太郎は上京し、作詞家として数々のヒットをだし、「ここに幸あり」など3000曲以上を手がけた大作詞家となった。高橋掬太郎の歌碑は、このように建てられているが、同様にご当地ソングではないがまちがいなく函館でのことだ・・・。と感じられる「GLAY」の歌碑というのは建つことがあるのだろうか・・・。

 GLAYゆかりの「ラッキーピエロ」は繁盛しているが。
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2007年12月21日金曜日

第4講  月光仮面と函館


 大門グリーンプラザに、拳銃を持った特撮系のヒーローの像が設置されている。このヒーローは「月光仮面」昭和32年(1957)にラジオドラマ、翌年には国産初のTV映画として放映されたものである。TVシリーズは130回を数える大ヒット番組で、「どこの誰かは知らないけれど、だれもがみんな知っている。月光仮面のおじさんは、正義の味方よよい人よ・・・」という主題歌は「だれもがみんな」知っていた。

 この月光仮面の原作者は川内康範氏、このほかにも七色仮面、レインボーマンなどのヒーローものの原作。さらにはアニメ「まんが日本昔話」の
監修に携わっている。作詞家としても著名で、「だれよりも君を愛す」や「伊勢佐木町ブルース」などのヒット曲を多く出している。近い話題では、森進一が一部歌詞を変えて著作権侵害したという「おふくろさん」の作詞も川内氏である。

 川内康範氏は大正9年(1920)、函館の青柳町に生まれた。大森尋常小学校(現・高盛小学校)を卒業後16才で上京、日活、東映などを経て脚本家・作家として活躍している。
 川内氏の実家は日蓮宗の寺院であり、月光仮面の名前も仏教に由来。薬師如来の脇侍である月光菩薩から採ったとされる。

 月光仮面の像は、ふるさとである函館市に恩返しの気持ちをこめ、川内氏本人から寄贈されたものである。台座には、月光仮面のテーマである「憎むな、殺すな、赦しましょう」の一文が記されている。

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2007年12月14日金曜日

第3講  函館市電に関わる話

 函館に市電がなくなったとしたら、函館の観光客や住民は半減するだろう。と言うくらい、函館には市電というアイテムが欠かせないと思う。 現在の函館の市域はそうとう拡大したが、かつて「函館」と言えば市電の走っている範囲が「函館」であり、その外側はいわば「在」であった。




 函館の市電は、明治30年(1897)、弁天~東川町間に馬車鉄道が開通したのがはじまりで、その後延びた馬車鉄道の軌道を利用して大正2年(1913)、函館水電会社が東雲町~湯ノ川間に北海道初の電車を運行させたのがはじまりで、これは全国7番目の電車運行であった。



 函館の市電は、軌道間が1372mmという全国でも希なゲージの軌道で、馬車鉄道軌間といわれるものであり、それは馬車鉄道に由来する。このゲージを採用しているのは東京都電、京王電鉄、東急世田谷線、都営新宿線などだが、たとえば、標準軌と呼ばれる新幹線のゲージは1436mm、JR在来線のゲージは1067mmである。この理由として考えられるのは、当時の馬車鉄道が、その開業にあたって、車両の調達を東京の馬車鉄道の中古を期待しており、或いは使用してそのサイズになったと考えられる。現に、函館市電の中にも都電を利用したり、京王電鉄の中古を利用した経緯がある。一部で、JRと市電との相互乗り入れ構想もあったようだが、軌道間の面で言うと、そのままでは無理であり、実現には軌道の変更と車両改造のコストがかかる。

 札幌市電も函館と同じ馬車鉄道から電車になる際、1372mmで開業の予定が、電車の調達先が名鉄であったため、そのゲージである1067mmになったそうである。このように地方の市電開業には調達先の中古車両の事情が大きく関わっていた。

 函館市電は最盛期昭和39年(1964)には、現在の函館どっく前~湯ノ川、谷地頭~湯ノ川間に加え、函館駅前~五稜郭駅前(本線一部)、ガス会社前~五稜郭公園前(宮前線)、松風町~宝来町(東雲線) があり、営業キロ数は17.9㎞、1日あたり輸送人員は約13万人を数えた。また、市電の車庫も3カ所に及び、現在の駒場車庫の他、柏木町車庫(現在のマルカツ水産)、梁川車庫(現パボッツ)の三カ所に存在していた。その後、モータリゼーションの発達や市域拡大による中央部の人口減などで輸送人員を減らし、現時点では10.9㎞、1日あたり輸送人員は約1万8000人程度で推移している。

 最近は、環境に優しい乗り物として再び注目されているのが路面電車であり、函館市電も「らっくる号」の愛称をもつ超低床式二連車両の導入などのシティトラムとしての充実や、はいから号などのレトロ車両といった観光資源としての運行など、新しい側面の可能性を見せている。



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2007年12月12日水曜日

第2講 「土方歳三最後の謎」

 明治維新の際、新政府軍と旧幕府軍との間で内戦状態になった。これが鳥羽伏見からはじまった戊辰戦争である。この戦いの最後の舞台になったのが函館であり、とくにこの戦いのことを一般に「箱館戦争」という呼び名で読んでいる。

 正確に言えば、戊辰戦争(戊辰の役)と言われているのは、明治元年(1868)1月の争いのことをいい、鳥羽伏見から、江戸開城、会津戦争、そして、榎本武揚率いる旧幕府艦隊が、東北列藩や土方ら新撰組などの残党と仙台から合流し、蝦夷地に入り、五稜郭を占拠、松前や江差を制圧して「蝦夷共和国」を樹立したのがこの年の12月で、ここまでのことを(戊辰の役)という。

 これ以降、明治2年(1867)にくりひろげられた新政府軍の反攻と榎本軍の降伏にいたるまでの主に宮古沖の海戦や、箱館を中心に道南一帯で繰り広げられた戦いのことは、正確には(己巳の役)という。


 己巳の役という呼び名は、大町電停からまっすぐ弥生坂を登り切った所に立つ「己巳の役海軍没者慰霊碑」の文面でも確認できる。このように、正確には二期にわたるこの戦いを総じて「箱舘戦争」と言っているのであるが、もはや日本史的には「戊辰戦争」という概念で括られるのが通史的ではある。




 新撰組副長である土方歳三は、鳥羽伏見から会津、箱館とこの戊辰戦争を戦い抜き、自らも最後の決戦として覚悟していたようである。二股口会戦での総指揮官であった土方は、兵に対して慈母のように接し、みなに慕われる理想的な上官だったと記録に残っている。「鬼の副長」のイメージとはややちがう一面も、たとえば最後に撮らせたという断髪洋装の肖像写真も、心なしか優しげな表情でもあり、そもそも土方は女性的な文字を書く、今で言えば「イケメン」であったのだろう。



 土方は、明治2年(1869)の5月11日、孤立した弁天台場を支援するべく一隊を率いて五稜郭から向かう途中、一本木柵付近で新政府軍と会戦し、流れ弾が腰を貫通、落馬した後絶命したと記録にあるが、諸説あって、異国橋(今の十字街電停前)という説もある。

 その遺体の埋葬地も定かではなく、少なくとも、碧血碑、称名寺、五稜郭内など、諸説あって正確な特定はできていない。

 今、函館市総合福祉センター(あいよる21)の前庭にある「土方歳三最後の地碑」は、当初、旧若松小学校の校庭に建てられ、その後向かいのグリーンベルトに移され、そして、現在地に移り小公園化されたのは最近のことである。

 このように、土方の最後にまつわる記録に関しては、意外なほど何もわかっていないことが多い。 

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第1講 「はこだて」とは?

 最初にこのブログを立ち上げようと思ったとき、「はこだて検定」という試験に合格するべくの公開ノー トにしようかと考えた。

 その動機は極めて不純なものであり、晒されていると、人は自ずと学習するであろう。という他力本願な代物であった。(^▽^笑) しかし、学習していくと「はこだて」というものをどう捉えたらいいのかと言う疑問に達した。なぜなら、検定をうけてみてわかったが、函館とは、単に観光名所とか、海産物がうまいところだとかというものだけでくくれないからである。

 つまり、「はこだて」という概念は、表面的なものではなく、その成立や精神世界も含め、極めて広く奥深いものである。しかも、それは歴史や文化、といったあらゆるものにまたがる。

 そもそも「はこだて」と言う呼び名は、現在の函館山の麓にあたる「宇須岸(ウスケシ)」に15世紀頃にあった河野加賀守政通の館が「箱館」と呼ばれていたことに由来するとされている。

幕末になって、ロシアなどの欧米諸国が鎖国中の日本の近海に現れるようになると、箱館の意味は重要度を増していった。高田屋嘉兵衛などが活躍するのはこの頃である。

 嘉永6(1853)年、アメリカのペリーが浦賀に来航、翌、安政元(1854)年には、日米和親条約が結ばれて箱館と下田が開港することになった。函館はその後の日米修好通商条約においても開港地として定められ、国際都市としての顔を見せることになる。ペリーは測など量のため、函館に上陸しており、弁天町の電車通りには、「ペリー会見所跡」の標識が立っている。

  この頃、外国人水夫の作成した辞書に、はこだてのことを「HAKODADI」(はこだでぃ)と標記しているほか、COOL=SYAKKOI(しゃっこい)など、函館弁が記録されており、興味深い。

 「箱館」が、現在の標記の「函館」になったのは、明治2(1869)年、蝦夷地が北海道と改称され、開拓使の函館出張所の開設の布告がされたときの「はこだて」の標記が「函館」になったのがはじめとされているが、当初は公文書でも「函館」と「箱館」が混在していたようであり、民間に浸透するのはもう少し時間がかかったであろう。


  *参考文献  函館市史 通説編 1、2

          はこだて検定公式テキストブック



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