2007年12月12日水曜日

第1講 「はこだて」とは?

 最初にこのブログを立ち上げようと思ったとき、「はこだて検定」という試験に合格するべくの公開ノー トにしようかと考えた。

 その動機は極めて不純なものであり、晒されていると、人は自ずと学習するであろう。という他力本願な代物であった。(^▽^笑) しかし、学習していくと「はこだて」というものをどう捉えたらいいのかと言う疑問に達した。なぜなら、検定をうけてみてわかったが、函館とは、単に観光名所とか、海産物がうまいところだとかというものだけでくくれないからである。

 つまり、「はこだて」という概念は、表面的なものではなく、その成立や精神世界も含め、極めて広く奥深いものである。しかも、それは歴史や文化、といったあらゆるものにまたがる。

 そもそも「はこだて」と言う呼び名は、現在の函館山の麓にあたる「宇須岸(ウスケシ)」に15世紀頃にあった河野加賀守政通の館が「箱館」と呼ばれていたことに由来するとされている。

幕末になって、ロシアなどの欧米諸国が鎖国中の日本の近海に現れるようになると、箱館の意味は重要度を増していった。高田屋嘉兵衛などが活躍するのはこの頃である。

 嘉永6(1853)年、アメリカのペリーが浦賀に来航、翌、安政元(1854)年には、日米和親条約が結ばれて箱館と下田が開港することになった。函館はその後の日米修好通商条約においても開港地として定められ、国際都市としての顔を見せることになる。ペリーは測など量のため、函館に上陸しており、弁天町の電車通りには、「ペリー会見所跡」の標識が立っている。

  この頃、外国人水夫の作成した辞書に、はこだてのことを「HAKODADI」(はこだでぃ)と標記しているほか、COOL=SYAKKOI(しゃっこい)など、函館弁が記録されており、興味深い。

 「箱館」が、現在の標記の「函館」になったのは、明治2(1869)年、蝦夷地が北海道と改称され、開拓使の函館出張所の開設の布告がされたときの「はこだて」の標記が「函館」になったのがはじめとされているが、当初は公文書でも「函館」と「箱館」が混在していたようであり、民間に浸透するのはもう少し時間がかかったであろう。


  *参考文献  函館市史 通説編 1、2

          はこだて検定公式テキストブック



にほんブログ村 地域生活ブログへ






 

0 件のコメント: