2007年12月12日水曜日

第2講 「土方歳三最後の謎」

 明治維新の際、新政府軍と旧幕府軍との間で内戦状態になった。これが鳥羽伏見からはじまった戊辰戦争である。この戦いの最後の舞台になったのが函館であり、とくにこの戦いのことを一般に「箱館戦争」という呼び名で読んでいる。

 正確に言えば、戊辰戦争(戊辰の役)と言われているのは、明治元年(1868)1月の争いのことをいい、鳥羽伏見から、江戸開城、会津戦争、そして、榎本武揚率いる旧幕府艦隊が、東北列藩や土方ら新撰組などの残党と仙台から合流し、蝦夷地に入り、五稜郭を占拠、松前や江差を制圧して「蝦夷共和国」を樹立したのがこの年の12月で、ここまでのことを(戊辰の役)という。

 これ以降、明治2年(1867)にくりひろげられた新政府軍の反攻と榎本軍の降伏にいたるまでの主に宮古沖の海戦や、箱館を中心に道南一帯で繰り広げられた戦いのことは、正確には(己巳の役)という。


 己巳の役という呼び名は、大町電停からまっすぐ弥生坂を登り切った所に立つ「己巳の役海軍没者慰霊碑」の文面でも確認できる。このように、正確には二期にわたるこの戦いを総じて「箱舘戦争」と言っているのであるが、もはや日本史的には「戊辰戦争」という概念で括られるのが通史的ではある。




 新撰組副長である土方歳三は、鳥羽伏見から会津、箱館とこの戊辰戦争を戦い抜き、自らも最後の決戦として覚悟していたようである。二股口会戦での総指揮官であった土方は、兵に対して慈母のように接し、みなに慕われる理想的な上官だったと記録に残っている。「鬼の副長」のイメージとはややちがう一面も、たとえば最後に撮らせたという断髪洋装の肖像写真も、心なしか優しげな表情でもあり、そもそも土方は女性的な文字を書く、今で言えば「イケメン」であったのだろう。



 土方は、明治2年(1869)の5月11日、孤立した弁天台場を支援するべく一隊を率いて五稜郭から向かう途中、一本木柵付近で新政府軍と会戦し、流れ弾が腰を貫通、落馬した後絶命したと記録にあるが、諸説あって、異国橋(今の十字街電停前)という説もある。

 その遺体の埋葬地も定かではなく、少なくとも、碧血碑、称名寺、五稜郭内など、諸説あって正確な特定はできていない。

 今、函館市総合福祉センター(あいよる21)の前庭にある「土方歳三最後の地碑」は、当初、旧若松小学校の校庭に建てられ、その後向かいのグリーンベルトに移され、そして、現在地に移り小公園化されたのは最近のことである。

 このように、土方の最後にまつわる記録に関しては、意外なほど何もわかっていないことが多い。 

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