2007年12月14日金曜日

第3講  函館市電に関わる話

 函館に市電がなくなったとしたら、函館の観光客や住民は半減するだろう。と言うくらい、函館には市電というアイテムが欠かせないと思う。 現在の函館の市域はそうとう拡大したが、かつて「函館」と言えば市電の走っている範囲が「函館」であり、その外側はいわば「在」であった。




 函館の市電は、明治30年(1897)、弁天~東川町間に馬車鉄道が開通したのがはじまりで、その後延びた馬車鉄道の軌道を利用して大正2年(1913)、函館水電会社が東雲町~湯ノ川間に北海道初の電車を運行させたのがはじまりで、これは全国7番目の電車運行であった。



 函館の市電は、軌道間が1372mmという全国でも希なゲージの軌道で、馬車鉄道軌間といわれるものであり、それは馬車鉄道に由来する。このゲージを採用しているのは東京都電、京王電鉄、東急世田谷線、都営新宿線などだが、たとえば、標準軌と呼ばれる新幹線のゲージは1436mm、JR在来線のゲージは1067mmである。この理由として考えられるのは、当時の馬車鉄道が、その開業にあたって、車両の調達を東京の馬車鉄道の中古を期待しており、或いは使用してそのサイズになったと考えられる。現に、函館市電の中にも都電を利用したり、京王電鉄の中古を利用した経緯がある。一部で、JRと市電との相互乗り入れ構想もあったようだが、軌道間の面で言うと、そのままでは無理であり、実現には軌道の変更と車両改造のコストがかかる。

 札幌市電も函館と同じ馬車鉄道から電車になる際、1372mmで開業の予定が、電車の調達先が名鉄であったため、そのゲージである1067mmになったそうである。このように地方の市電開業には調達先の中古車両の事情が大きく関わっていた。

 函館市電は最盛期昭和39年(1964)には、現在の函館どっく前~湯ノ川、谷地頭~湯ノ川間に加え、函館駅前~五稜郭駅前(本線一部)、ガス会社前~五稜郭公園前(宮前線)、松風町~宝来町(東雲線) があり、営業キロ数は17.9㎞、1日あたり輸送人員は約13万人を数えた。また、市電の車庫も3カ所に及び、現在の駒場車庫の他、柏木町車庫(現在のマルカツ水産)、梁川車庫(現パボッツ)の三カ所に存在していた。その後、モータリゼーションの発達や市域拡大による中央部の人口減などで輸送人員を減らし、現時点では10.9㎞、1日あたり輸送人員は約1万8000人程度で推移している。

 最近は、環境に優しい乗り物として再び注目されているのが路面電車であり、函館市電も「らっくる号」の愛称をもつ超低床式二連車両の導入などのシティトラムとしての充実や、はいから号などのレトロ車両といった観光資源としての運行など、新しい側面の可能性を見せている。



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2007年12月12日水曜日

第2講 「土方歳三最後の謎」

 明治維新の際、新政府軍と旧幕府軍との間で内戦状態になった。これが鳥羽伏見からはじまった戊辰戦争である。この戦いの最後の舞台になったのが函館であり、とくにこの戦いのことを一般に「箱館戦争」という呼び名で読んでいる。

 正確に言えば、戊辰戦争(戊辰の役)と言われているのは、明治元年(1868)1月の争いのことをいい、鳥羽伏見から、江戸開城、会津戦争、そして、榎本武揚率いる旧幕府艦隊が、東北列藩や土方ら新撰組などの残党と仙台から合流し、蝦夷地に入り、五稜郭を占拠、松前や江差を制圧して「蝦夷共和国」を樹立したのがこの年の12月で、ここまでのことを(戊辰の役)という。

 これ以降、明治2年(1867)にくりひろげられた新政府軍の反攻と榎本軍の降伏にいたるまでの主に宮古沖の海戦や、箱館を中心に道南一帯で繰り広げられた戦いのことは、正確には(己巳の役)という。


 己巳の役という呼び名は、大町電停からまっすぐ弥生坂を登り切った所に立つ「己巳の役海軍没者慰霊碑」の文面でも確認できる。このように、正確には二期にわたるこの戦いを総じて「箱舘戦争」と言っているのであるが、もはや日本史的には「戊辰戦争」という概念で括られるのが通史的ではある。




 新撰組副長である土方歳三は、鳥羽伏見から会津、箱館とこの戊辰戦争を戦い抜き、自らも最後の決戦として覚悟していたようである。二股口会戦での総指揮官であった土方は、兵に対して慈母のように接し、みなに慕われる理想的な上官だったと記録に残っている。「鬼の副長」のイメージとはややちがう一面も、たとえば最後に撮らせたという断髪洋装の肖像写真も、心なしか優しげな表情でもあり、そもそも土方は女性的な文字を書く、今で言えば「イケメン」であったのだろう。



 土方は、明治2年(1869)の5月11日、孤立した弁天台場を支援するべく一隊を率いて五稜郭から向かう途中、一本木柵付近で新政府軍と会戦し、流れ弾が腰を貫通、落馬した後絶命したと記録にあるが、諸説あって、異国橋(今の十字街電停前)という説もある。

 その遺体の埋葬地も定かではなく、少なくとも、碧血碑、称名寺、五稜郭内など、諸説あって正確な特定はできていない。

 今、函館市総合福祉センター(あいよる21)の前庭にある「土方歳三最後の地碑」は、当初、旧若松小学校の校庭に建てられ、その後向かいのグリーンベルトに移され、そして、現在地に移り小公園化されたのは最近のことである。

 このように、土方の最後にまつわる記録に関しては、意外なほど何もわかっていないことが多い。 

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第1講 「はこだて」とは?

 最初にこのブログを立ち上げようと思ったとき、「はこだて検定」という試験に合格するべくの公開ノー トにしようかと考えた。

 その動機は極めて不純なものであり、晒されていると、人は自ずと学習するであろう。という他力本願な代物であった。(^▽^笑) しかし、学習していくと「はこだて」というものをどう捉えたらいいのかと言う疑問に達した。なぜなら、検定をうけてみてわかったが、函館とは、単に観光名所とか、海産物がうまいところだとかというものだけでくくれないからである。

 つまり、「はこだて」という概念は、表面的なものではなく、その成立や精神世界も含め、極めて広く奥深いものである。しかも、それは歴史や文化、といったあらゆるものにまたがる。

 そもそも「はこだて」と言う呼び名は、現在の函館山の麓にあたる「宇須岸(ウスケシ)」に15世紀頃にあった河野加賀守政通の館が「箱館」と呼ばれていたことに由来するとされている。

幕末になって、ロシアなどの欧米諸国が鎖国中の日本の近海に現れるようになると、箱館の意味は重要度を増していった。高田屋嘉兵衛などが活躍するのはこの頃である。

 嘉永6(1853)年、アメリカのペリーが浦賀に来航、翌、安政元(1854)年には、日米和親条約が結ばれて箱館と下田が開港することになった。函館はその後の日米修好通商条約においても開港地として定められ、国際都市としての顔を見せることになる。ペリーは測など量のため、函館に上陸しており、弁天町の電車通りには、「ペリー会見所跡」の標識が立っている。

  この頃、外国人水夫の作成した辞書に、はこだてのことを「HAKODADI」(はこだでぃ)と標記しているほか、COOL=SYAKKOI(しゃっこい)など、函館弁が記録されており、興味深い。

 「箱館」が、現在の標記の「函館」になったのは、明治2(1869)年、蝦夷地が北海道と改称され、開拓使の函館出張所の開設の布告がされたときの「はこだて」の標記が「函館」になったのがはじめとされているが、当初は公文書でも「函館」と「箱館」が混在していたようであり、民間に浸透するのはもう少し時間がかかったであろう。


  *参考文献  函館市史 通説編 1、2

          はこだて検定公式テキストブック



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